悔いなく死ぬために高齢者が望む「尊厳死」とは何か?【呉智英×加藤博子】
加藤:日本では積極的安楽死は違法ですが、延命治療をやめるという消極的な安楽死は可能ということですね。
呉:現在、日本でも要件がそろうと安楽死は認められる方向になっている。絶対に助からないことがわかっていて、死が眼前に迫っていて、医師の立ち合いがあるとかね。ということは、実際にすでに行われている可能性がある。いちいち報告する義務はないわけだから。家族と当人が医師に懇請すれば、やる可能性がある。
——ただ、そのハードルは高いですね。だって、もうすぐ死ぬ人間は、安楽死したいという主張をできないわけですから。だから、その要件に当てはまらないかもしれない。
呉:そうそう。だから、いわゆる安楽死より、死が迫っている時に、ということなんだよね。もう自分は70まで生きた、80まで生きた、これからいいこともないし、現に体が弱ってきて苦痛も大きいという段階で、やれるかどうかという問題なんだよね。
加藤:死にたい人を手助けする自殺幇助という方法も、最近は選択肢に入ってきました。
尊厳死に関する意識が最も進んでいるといわれているのはスイスで、すでに自殺幇助団体が優良企業として発展しているそうです。このあたりは最近盛んにあちこちで報告されています。読みやすい本としては、脚本家の橋田壽賀子(1925~)の『安楽死で死なせて下さい』(文春新書)があります。自分の意思で誰にも迷惑をかけずにきれいに死んでいきたい、つまりP機能が先に衰えきってしまう前に、自らB機能を絶ちたいという願いが、スイスで叶えられるのです。これは高齢者に限らず、NHK特集で放映された、若い日本の女性の例も知られています。彼女は不治の病から、自分でスイスの自殺幇助団体に申し出て、姉たちに付き添われてスイスに向かい、静かに亡くなりました。もちろん、最後まで丁寧に意思確認がなされた上でのことですが、死の瞬間まで放映されたことは心に残る出来事でした。
呉:橋田は、俺のおふくろと同い年なんだね。おふくろは4年前に91歳で死んだけど、橋田にとっては切実な問題です。
加藤:ケーガンは、死を悪いことと考えることは、先入観、固定観念であると語ります。確かに歴史を振り返れば、死は常に悪いこととされてきたわけではない。むしろ「死を想え(メメント・モリ)」や、人間はいずれ必ず死ぬ存在なんだから、今を頑張れよという励ましの言葉として使われることもある。「決死」の覚悟でやりなさい、という日本語もある。生を再起動するために、死をもってくるのは日常的なことだった。そして、死を想う気持ちがさらに積極性を持ち、あげくに「前向きに死んでいきたい」という願いに至ることもあったわけです。それでケーガンは、死への希求や自殺について考察を進めてゆくのですが、先ほどのP機能とB機能つまり心身の死の時間差について、変な話を付け加えておきましょう。